2016年02月08日

サイゴ

今日は定年退職を迎える日だった。
思えば毎日同じ時間に起き、妻の作った朝食を食べ、歯を磨き、トイレに行き
スーツに着替え、コーヒー一杯とタバコを終えると図ったかのように同じ時間になる。

最後の出勤日だって同じだった。
特別な日ではない。昨日と同じことをしているだけだ。
いや、少し違ったか。出ていくとき妻に
「今日は何が食べたい?」
と聞かれた。私は
「魚がいいな」
とだけ答えた。

エレベータに乗り、5Fから1Fへ
いつものように4Fでゴミ袋を持ったユニクロの男が乗ってきた。
妻の話ではこの男は漫画家だ。どこの雑誌に載ってるかもわからない。
【今日でこの男とも会わなくなるのか。】
そう思うと、一度も会話をしたことがないこの男が感慨深くなってしまった。
【漫画書いてるんですか?】
一度くらい聞いてもいいんじゃないかと思ってしまった。
【どんな漫画書いてるんですか?】
中途半端な好奇心は膨れていった。
そうは言っても急に60も過ぎる男が話しかけたって気味が悪いだけだ。
冷静さが少し戻った時、1Fの扉が開いた。
「あ!」
私は声をあげてしまった。
男は私を見た。
「あ」
男も言った。

男のゴミ袋には焼き鳥の串であろうものが飛び出ていた。
それだけならなんでもなかったのだが、その串穴から汁が出ていた。
生ごみらしいその匂いはエレベータの床に垂れていた。
私と男はたまらずエレベータから降りていた。
そして、そのまま扉が閉まり上へ行ってしまった。
男はゴミ袋を器用に汁が垂れないように持ち直した。
「あははは」
とても爽やかとはかけ離れている顔だが、彼の茶目っ気を見た。
「あ、あのすいませんでした。」
男は私に謝った。
「い、いえ、私は大丈夫です。」
私は答えた。
「そ、それっじゃあ、ぼ、僕はこれで!すいませんでした!」
男はまた謝った。そして立ち去ろうとした
「ちょっと!」
私は男を呼び止めた。忘れていたはずの中途半端な好奇心が顔を出した。
「漫画、描いてるんですか?」
言ってしまった。そんな流れじゃなかったのに。
最後の日だからか?彼と話せたからか?いろんな勢いが重なった結果なのか?
男はビタッと止まった。そして振り返り
「え、ぼ、僕のこと知ってるんですか?」
また、ごみ袋から汁が垂れた。男は慌ててまた持ち直した。
「いえ、妻から君が漫画家だと聞いて・・・その・・・毎日会いますし気になりまして・・・」
本当でない理由が私の口から出てきた。
「あ、そうなんですか。なんか、気にさせてすいません」
男はまたまた謝った。
「僕、漫画家なんです。一応、漫画ゴクウって雑誌に書かせてもらってます」
驚いた。私がたまに見てる漫画雑誌だった
「『猿が如く』ってヤクザ漫画です・・・」
知っていた。ちゃんと読んでる漫画だった。しかも好きな部類だ。
「私、読ませてもらってますよ。カッコいい漫画ですよね。」
「本当ですか!ありがとうございます。」
「今度、機会があればサイン頂きたいくらいですよ」
「え!あ!じゃあ、サイン書きます!また、明日の朝エレベータで!」
「え」
男はゴミ袋の汁を垂らさぬよう頭を3度も下げながら去っていく。
「じゃあ!ありがとうございます!がんばります!」
「あ」

最後の出勤になるはずだったが、明日も同じ時間に出勤しなくてはならないようだ。

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posted by 大佐への道 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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